世界遺産
今帰仁城跡

結家トップページ > 沖縄北部周辺情報 > 世界遺産「今帰仁城跡」



今帰仁城跡想像図

今帰仁城(別名北山城)

いつだれによって築かれたかは不明なところが多くさだかではありませんが、発掘調査の成果から13世紀頃には城造りをはじめた事が分かっています。

三山時代

14世紀の中国の史書に琉球國山北王「怕尼芝(はにじ)」「珉(みん)」「攀安知(はんあんち)」の三王が登場します。この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山県立の時代」でした。

北山王は沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。しかし1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志(しょうほし)によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになります。

監守時代

北山の敗北後、中山は北部地域の管理とし監守を設置。1422年以後監守の居城としてグスクを利用します。しかし1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上しました。監守が住まわなくなって以後は御嶽とし精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れています。

①平郎門

②大隅

本門で、現在見る門は昭和37年に修復されたものです。
門の両脇には狭間があって門番が見張りするところです。

戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられています。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭です。

③カーザフ

④大庭(ウーミャ)

カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味します。
谷間は自然の石が露頭して独特の景観をつくっています。

大庭を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置されていたと考えられ、行事等に利用された重要な広場です。

⑤御内原(ウーチバル)

⑥主郭(俗称本丸)

今帰仁城跡に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、城内でも神聖な場所です。北側から海を一望することができます。

発掘調査によって築城から廃城までの時期変移を確認することができました。城内で最も中心的な建物があった場所です。

⑦今帰仁ムラ跡(集落遺跡)

⑧志慶真門郭

城の前面にはかつて「今帰仁ムラ」と呼ばれる城下町がありました。
発掘調査により集落生活の様子が確認されています。

ここには城主に仕えてた身近な人々が住んだと考えられます
発掘調査によって4つの建物があったことが分かっています。

①平郎門 ②大隅 ⑧志慶真門郭

結家トップページへ 料金システム 地図(アクセス) 周辺情報 ヘルパー募集 結家写真結家動画トレッキング写真 移住情報 沖縄安宿
inserted by FC2 system